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聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

カトリック教会内にはびこる不信仰

カトリック教会というところは、1960年代頃に大幅な刷新が行われました。

第二バチカン公会議、そして以前から行われてきた「史的イエス」「解放の神学」などの異端的思想の注入により、かつての信仰は、もろくも崩れてしまいました。


今では、イエスの復活について、まともに信じている人は教会内でも少なくなりました。
それどころか、復活について論じられることすらほとんどありません。


おかしな話です。
イエスが復活された、ということは新約聖書における重要なテーマであるはずです。
それなのに、これを避けて通る、ということは個人的には納得がいきません。


リベラルな解釈、とか、合理的解釈、というものにより聖書の言葉を捉えるようなことが多くなっています。復活といっても、体が復活したわけではなくて、信徒の心の中に復活したのだ、などという訳のわからない説明を聞いたこともあります。


(僕は、自分に信仰があるとは思っておりません。
もし、からし種一粒ほどでも信仰があれば山をも動かす、とイエスは言っておられます。
僕はといえば、何一つ動かしてはいないのですから。
しかし、聖霊の助けにより僕は助けられるであろう、という希望を持っております。)


もし復活を信じないのなら、宣教も信仰も無駄なのです。
パウロは聖書の中で、次のように語っているからです。


■コリント人への第一の手紙 15:1215

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。

そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。


『体の復活』以外で、生老病死ということを根本から消滅させる方法は存在しません。