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聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

麦と毒麦のたとえについて

今回は、久しぶりに聖書について書きたいと思いました。


聖書では、人のことは麦にたとえられていますね。
マタイ福音書における、麦と毒麦とのたとえはよく知られています。

収穫の時、麦は蔵にしまわれて、毒麦は火で焼かれると書いてあります。


なぜ麦を、蔵にしまうと書いてあるのでしょう。
なぜ毒麦を、火で焼くと書いてあるのでしょう。


麦は、いつかは粉に挽いてパンにするために蔵に入れるのです。


かわって、毒麦を火で焼く、ということについてですが、
これもまた、パンを作るために燃やすわけです。


毒麦は、麦で作ったパンを焼くための燃料となります。


最終的に麦を粉にしてパンを焼くときのために、毒麦も
麦の収穫の時期までは、燃やさずそのままにされている、ということが言えるでしょう。


一本の麦が、一人の人のたとえであるとするなら、
それを粉に挽いてパンにする、ということはどういうことのたとえでしょう。


粉になった麦は、もはや一本の麦としてではなく、
一つのパンの材料としての存在になったのです。


こうして出来上がったパンは、多くの存在が一つになったものです。
どこまでが自分で、どこからが他人という区別がありません。


皆が、一つの体、一つの共同体となっているのです。


このように「パン」というのは、天的なたとえであることを肌で理解しましょう。
これは、理想的な世界のことであり、天の国のたとえでもあります。

まず、この理解のもとに、次はパン種について考えていきましょう。


「パン種」という言葉が、聖書では用いられていますが、
これは、通常「イースト菌」とか「酵母菌」と呼ばれているものです。


これらの菌は、そもそもの食べ物を膨らましたり、
味をつけたり、おいしくしたり、してくれるものです。


こうした菌の働きによって、私たちの生活は様々な
彩りを付加していくことができます。


「パン種」は、このように考えてください。
人生において、様々な楽しみを付加してくれるものであり、
人生を膨らませてくれるものです。


もし一切の「パン種」がなかったとしたなら、
そこに残るのは、「生きている」自分の存在のみです。
神によって生まれてきた自分そのものです。
これは、まったくの素の状態といってもいいかもしれないですね。


「パン種」である、様々な楽しみや、出来事やらを、自分からすっかり除いてみると
ただ「生きている」という素の状態の自分が姿をあらわします。


もちろん、「パン種」が不必要だというわけではありません。


しかし、自分の本体は、「パン種」を取り除いた
今現在「生きている」状態の自分です。
これを、皆は「命」と言っているのです。


「パン種」のために「命」があるのではなく、
「命」があるからこその「パン種」ということです。


さて、正統派のユダヤ人たちは、現代においても
「過ぎ越しの祭り」の始まる前には、自宅の台所にある
「酵母菌」やら「イースト菌」やらを廃棄したり、燃やしたりしなければならないのです。


パンに入れてはいけないのみならず、家からまったく排除するわけです。
こうした状態で、彼らは「過ぎ越しの祭り」を迎えるのです。


私たちも、主に従い罪を赦されるために、
まじりけのない、まっさらな、純粋なパンのようになり、
私たちから災いが過ぎ越すことを希望します。アーメン。