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聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

ユダヤ教とキリスト教との一番の違い

日本人の多くの人は、ユダヤ教キリスト教も似たようなものだろう、と思っておられるようです。
確かに旧約聖書というものを、どちらも共通に使用していますが、その解釈において、大きな隔たりがあるということを書きたいと思いました。


キリスト教の成立に大きく関わった人に、アウグスティヌスという人がいますが、この人によって『原罪』という観念がキリスト教に根付いたと言ってもよいでしょう。


かわって、ラビ的ユダヤ教においては、伝統的な祈祷書があります。
この祈祷書は、『原罪』というものを認識していない人間観により成り立っています。


つまり、人間というものに対する感覚が、すでにキリスト教とラビ的ユダヤ教では根本的に異なるわけです。


ユダヤ人の一般的な特徴としては、
『我が強い』『要求する人々』『自己の落ち度は認めない人々』『悔い改めない人々』となりますが、この性格は、旧約聖書に対する彼らの解釈、つまり祈祷書やタルムードから導き出された結果であると、僕は考えています。


おおよそ2000年前のパレスチナにおいて、一般的なユダヤ人のトーラー解釈と、まるで異なる見解を持った人物が現れました。それがイエスという人物です。
これは、それまでのユダヤ教、つまり律法遵守が第一という考えに対する全否定にあたるもので、まったく別のトーラー解釈をイエスは披露したのでした。この時のイエスの説教を、キリスト教では『山上の垂訓』と呼んでいます。


そもそもイエスは、自身が宣教を始めるにあたって、まず次のように言われました。


★マルコ福音書 1:15
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」



福音を信じる前に、『悔い改めて』という言葉が付いていることに注目してください。
イエスによる、よいおとずれを知らせる福音を信じる前に、まず自身を悔い改めることが必要のようです。


この『悔い改め』こそが、ユダヤ人たちにとっては、もっとも苦手で、かつ嫌悪すべきことなのです。


律法遵守ということが第一に重要な命題ということになると、それを守っている人には「私は律法を守っている」という自負心が生まれたり、律法を守らない人や守れない人に対する優越感が生まれてしまうものです。つまり、律法遵守によって、謙虚な気持ちが無くなる、ということに陥るわけです。
イエスは、様々な言い方や例え話で、このことを教えてくれました。


イエスを認めていない現代のユダヤ人たちもまた、むかしのユダヤ人たちと同様に、『悔い改めない』状態に陥ったままなのです。


否、むしろ現代では、全世界の多くの人々がユダヤ人化しているのではないでしょうか。
自己の主張を通そうとし、要求し、決して悔い改めないという、その姿勢は、そもそもキリスト教的ではないのです。


これがもっと進むと、自分の知恵や頭の良さを誇る、という悪魔崇拝グノーシス思想にまで陥るわけですが、そのことについては、ここでは割愛いたします。


ユダヤ人にとって「イエスをメシアとして受け入れる」とか「イエスを信じる」ということは、
すなわち、これまでの自分たちの考え方や生き方を、全面的に捨てること、
つまり、「悔い改め」なければならないことを意味します。


このため、ユダヤ人はイエスを信じることが出来ないでいるのです。
彼らにとって、自分の罪を認める「悔い改め」ということは、とても困難なことです。
決して悔い改めずに、自己の正当性や他者に対する優越性を主張するのがユダヤ人の特徴だからです。


マルティン・ブーバーは、次のように言いました。

『“選ばれた”というのは優越の意識をもたらすためではなく、天職のことである。
この意識は、他者との比較からではなくて、
天命の自覚と、預言者が呼び掛けて止まない仕事をやり遂げようとする責任感である。
もしも、あなた方ユダヤ人が、神に従って生きるのではなくて、
選ばれた存在であることを自慢するようなら、それは反逆罪なのである。』


私たち異邦人は、イエスをユダヤ人だと思っていますが、驚くべきことに
イエスのことをローマ人かサマリア人だと考えているユダヤ人が案外多いのです。
それほど、イエスの言動は、いわゆるユダヤ人的ではなかった、ということです。
イエスの説いた『悔い改め』は、禅などの東洋的思想に近いと言えます。
それゆえ、ギリシア哲学的かつ西洋的なキリスト教ではない、本来のイエスの教えは、
案外、日本人には受け入れやすく、わかりやすいものであると僕は思っています。