聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

永遠の命と復活について その4

イエスは、自分自身が十字架に架けられて処刑される前に、以下のように群衆と弟子に語っていました。


■マルコによる福音書 8:34〜35
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」



この聖句の中の重要な箇所は以下の部分だと思います。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」


混乱してしまうようなイエスの言葉ですので、少し注釈を加えます。


「自分の命」というのは、自分が所有していると思っている命のことを指しています。
かわって、「わたしの命」というのは、神があたえてくださっているはずの命のことを指しています。


このイエスの発言は、人が「命」に対してどのように認識しているか、という生き方の根底を問う事柄であるわけです。


なぜ「わたし」ということが「神」のことを指すのかについては、以下の聖句でご確認いただきたいと思います。
神ご自身が、モーセから名前を問われたときに、お答になった言葉です。


出エジプト 3:14
神はモーセに、「わたし。わたしが存在する、というのがわたしの名である。」と言われ、
また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしは在る』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」



神は、「わたし」という事柄が存在することが、ご自身の名前であると言われました。

「わたし」という意識は、人も神と同様に持っていますから、この意味において人は神と似ているわけです。
すべての人が、「わたし」という意識の元に考え、行動しています。

だから、誰もが「神の御名」によって生きている、ということなのです。


では、「神の御名」を汚す、とはどういうことでしょうか。


「神の御名を汚す」とは、他者を低くみたり、虐げたり、迫害したりすることを指すのです。
なぜなら、誰でも「わたし」という意識を持つ人の子であるからです。

この「わたし」を踏みにじることは、神を踏みにじることに等しいことになります。


わたしたちは皆、自分以外の人を「他人」だと認識しています。
ところが、本当は、誰もが「わたし」なのです。

誰もが「わたし」として生きているのですから、「わたし」でない人などどこにもいないのです。

いったいどこに、「どうでもいい他人」という人が存在するのでしょうか。
否、実際にはどこにもそのような人は存在しません。

わたしの隣にも、「わたし」という意識で生きている人がいるということ。
これが、人が持つべき本当の世界観であり、認識なのです。


つづく