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聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

何かを本気でやめたいとき

たとえそれが何であれ、あなたがやめたいと思うものがあるときは、
そのやめたいものに対する「お葬式」をすることをおすすめします。

辞めたい物の実物や、写真、あるいは関連した何かを机の上に置き、出来るならば花をまわりに飾ったりお酒を呑んだりして、その物との楽しかった思い出を思い出しながら、別れのときが来たことを悲しんでください。あなたとの楽しかったことは、これからは思い出として心にしまっておきますと宣言します。その後、本当にそれを手離してしまいます。

この儀式を本気ですることにより、あなたがこれまで本心では手離したいと思っていたが、どうしても手離せなかった「悪い習慣」、「良くない考え方」、「自分にとって好ましくないこと」などを本当に捨てることが出来るはずです。

カラダが二つあったらいいなと思うとき

カラダが二つあったらいいのにと思うときがあります。

自分のカラダが二つあれば、その一つは 自分の大切な人と楽しく過ごしている自分です。

もう一人の自分は、あらゆることを手放し、自分の興味あることにのみ時間を費やし

没頭している自分です。

 

裁きの権能を人は持っている

ヨハネ福音書5:19
父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

普通、この聖句はイエスがご自身のことを言っていると解釈されていますが、イエスが言う「子」とは私達のことです。主の祈りを知っている人は、主の祈りの冒頭の句を思い出してください。

子は父と何でも同様に行うのです。

ヨハネ福音書5:22
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

ヨハネ福音書5:27
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

何度も聖書はさばきについて、これは「子がおこなう」ことであると言っています。
ここで重要なことを書きます。あなたの裁き主は、実にあなた自身です。

■マタイ7:2
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

あなたは人であり子でもあるので、裁きをゆだねられています。

あなた自身が心の中に持っている、人に対する裁きの基準で、あなたはあなた自身をも裁くことになっています。
あなたが地獄へ行くか、天国へ行くか、死後どのような状態になるのかを決めるのはあなた自身です。あなたが罪を赦す気持ちを持っている人であればあるほど、あなたは裁かれることがなくなります。なぜなら、あなたを裁くのは、あなた自身の持っている基準だからです。

しかし、なぜか多くのクリスチャンは、他者を裁きの目で観ることに長けています。
特にクリスチャン以外の人に対して、あるいは同じクリスチャンでも別の教派に属する人たちに対する態度は酷いものです。

そうすると、そのようなクリスチャンの行末はどうなるでしょうか?想像してみてください。

『然り、然り』『否、否』と言いなさい。

■マタイによる福音書5:37
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。

 

人は瞬間瞬間、選択をしています。

選択肢が次から次へと現れるのが現実世界です。

 

たわいないことを例にするならば、ラーメンを食べるかカレーを食べるか、

というようにつねに何かに対して『然り、然り』『否、否』と言っているのです。

 

生き物の肉を喰うこと

僕は肉食が嫌いだ。牛や豚を屠殺して彼らの肉を剥ぎ取り、それを食らっている行為が嫌いだ。

僕は肉を食べることが好きだ。肉はおいしくて、食事というおこないを満足感で満たしてくれる。

この相反した気持ちと気持ちとが、どちらも間違いなく自分の本心なのだ。
このように僕は、自分の中にこの解決できない矛盾を抱えている。

十字架前にイエスが命じた宣教

十字架にかかる前にイエスは十二弟子に宣教を命じています。
その弟子の中には後にイエスを裏切るイスカリオテのユダもいました。
この時には、イスラエルの中だけで宣教せよ、ということをイエスは語っていたのです。


イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 (マタイ10:5~6)


このように命じたにも関わらず、その後も弟子たちはイエスと行動を共にしていることが聖書に書かれております。
まったく不思議ではありますが、このイスラエル内宣教命令はいつから開始となったのでしょうか?


一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。(マタイ10: 23)

宣教を命じている場面でこの聖句は出てきます。このイエスの言葉は再臨の預言として受け取られることが多いです。しかし、そうだとしたならば、イエスの弟子たちはまだイスラエルの町々を回り終わっていないということになるのでしょうか?

天上のルールは地上と同じである

そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。(マタイ16:15~19)

 

このように、ペテロの上に教会を建てようということをイエスは言われました。 この教会がカトリック教会のことを指すのかどうかは意見が分かれると思いますが、とりあえず、それは今回の議論の対象ではありません。

 

問題としたいのはイエスの次の言葉です。 「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」

 

「天国の鍵」を持っている人というのは、自由に天国に出入りできる人ということになろうかと思います。 もちろん、他の人を入らせる権限を持っている、とも言えるでしょう。しかし、ここで考えたいのはイエスの「そして、・・・」の言葉です。 「そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」 ペテロが地上で決定した規則は天上でも決定され、ペテロが地上で赦す事柄は天上でも赦されるという意味です。

 

天にも裁判所のようなものがあり、そこでの裁きの基準は、何と、人であるペテロに委ねるとイエスは言っているわけです。このように、天の裁判所における基準は地上で決めることになっています。

 

さて、ここからは僕の感想です。

人は出来る限り、自分が住んでいる国の法律に従わなければなりません。
天に別の法律があるわけではないからです。
もしあなたが地上で罪に定められていることを行ったなら、それは天でも罪と定められる可能性が高いです。
「この世の法律は、人間が作ったものだから従う必要はない」ということにはならないのです。