聖書とユダヤ人

聖書の根本的な教え、復活と永遠の命についての解説

イスラエルの境界線 -約束の地-

旧約聖書において、主がアブラハムに土地を与えると宣言した記述は多いです。

 

これを俗に「約束の地」と言ったりしますが、この約束の地の範囲がどれくらいなのかは誰にもわかりません。主の言葉がさまざまに解釈できるからです。

 

もっとも多く信じられているのは「北はユーフラテス川からヨルダン川まで」というやつです。

あるユダヤ人から聞いた話によれば、主は次のように土地提供の約束をアブラハムユダヤ人に対してしているようです。

 

(1)わたしはあなたたちに「あの土地」(ハアレツ)を与える。

(2)あなたが足を踏むところは、すべてあなたの土地となる。

(3)北はユーフラテス川からヨルダン川まで

(4)ダンからベエルシバまで

 

さあ、イスラエルの境界線(約束の地)とは、どこからどこまでなのでしょうか。

 僕が少し怖いなと思うのは、(2)の解釈です。

 

■創世記 13章 17節

「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」

 

申命記 11:24

あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。

 

もしそうした解釈が成り立つと考えるなら、ユダヤ人が散らばった地域は、世界中すべてユダヤ人のものであるという解釈が成立することになるのではないでしょうか。

「神が生きているなら、いずれ死ぬ」に対する反論

仏教徒であるアルボムッレ・スマナサーラ氏が以下のように語っているそうです。

ところで実は聖書では、神もちゃんと因果法則に従っているのです。
 神は天地を創造したりするでしょう?あらゆる法則には、必ず結果がついてきますから、「天地を創造する前の神」と「天地を創造したあとの神」とでは違う神にならざるを得ないのです。
 皆さん自身のことを考えて下さい。一歩歩いたら、景色が変わるでしょう。その時の自分は、もう違う自分でしょう?
 あるいはまた、聖書の神は自分を褒め称える者を天国に引き上げるのです。「自分を褒め称える」という原因で、結果として「天国に引き上げる」のです。「自分を侮辱する」なら「地獄に突き落とす」のです。
 ですからやはり、聖書の神も因果の世界で語られているのです。
 そもそも聖書自体が「ああして、こうして、こうなりました」というお話でしょう? 因果語りですよ。それでどんどん話が変わっているではないですか。だったら「生きているなら、いずれ死ぬ」でしょう? 神だって死ぬのが論理的です。
当たり前といえば当たり前です。何かをしたら、その結果が生じるというだけの話。「ずっとあって何もしません」では、それこそお話になりませんからね。
 にもかかわらず「神は永遠不滅」などというのですから、やっぱり聖書はお話になりません。無知もいいところです。
ひどい妄想です。文学作品としても説得力がないのではないでしょうか。
 「生きているからには、必ず死ぬ」のです。現実に生きている我々は、ここから一歩も動くべきではありません。
想像をたくましくするのは自由にできるのですが、害ばかりです。聖書を本気で読んでたりなんかすると、人生を失敗します。
事実、それで世界中ひどいことになっているのですから、実証済みです。殺して、殺して、それこそ聖書の世界を再現しているのです。ろくなことはありません。妄想だとわかっている分、マンガ本の方が、よほど害が少ないのです。
アルボムッレ・スマナサーラ著『無常の見方―「聖なる真理」と「私の幸福」』より)

 

★ダニエルによる論評
この方は有名な方のようですが、あまり聖書を読んでおられないようです。
この方のご意見によると「生きているものが死ぬのは当然のこと」です。
もちろん、一般的、常識的にはそういう感覚が普通かもしれませんが、
命というものは、そもそも死なないものです。
わざわざ「永遠の命」と聖書が言っているのは、命が有限だと思われているから
わかりやすく言っているだけのことです。

「死ぬ命」と「永遠の命」という二種類の命があるのではないです。

人が復活して永遠に生きる肉体になることが起こるときには
地球も永遠に生きる物質体になっています。
つまり、地球まるごと復活することになっています。
このことも聖書には明確に記載されているのですが、あまり議論の対象になっている様子が見られないのは少し不思議なことです。
現実味がなく、荒唐無稽に感じられるせいかもしれませんね。

復活後は、物質の分子構造のなりたち自体が現在とは異なっているものと思われます。


追記:

そもそも時間というものが本当は無い(人の感覚による錯覚)のですが、これについてはまた別の機会にご説明します。

イエスはなぜ神のことを父と呼んだのか?


実際に、イエスには人間の父親はありません。
ヨセフは養父であって、血の繋がりはないからです。

神を父と呼ぶのは、キリスト教では当たり前のことになっています。

イエスがそのように呼んでおられたからです。

しかし、旧約聖書においては人は神によって土の塵から作られたのです。したがって、旧約では人はあくまで神の被造物であり、親子関係はどこにも存在しないはずです。

新約においてさえもパウロなどは「人は神の被造物。神が人をどのように造ったとしても人は神に対して文句を言える立場ではない」というようなことを言っています。

 

では、なぜイエスは神のことを父と呼んだのでしょうか。

自分よりも他者を愛するべきなのか?

イエスは、隣人愛についてどのように語っておられたでしょうか。
自分自身よりも他者を愛せよ、と言っているのでしょうか?
福音書からイエスの言葉を確認してみましょう。

★マルコによる福音書12章 31節
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これより大事ないましめは、ほかにない」。


もうお分かりだと思います。イエスは、自分よりも他者を愛せとは言っていないです。
むしろ、「自分を愛するように」と言っておられます。

自分を愛するがごとく、ということですから、イエスにおいては、まず自分を愛することが前提となっているのです。
自分をそもそも愛していない人は、同様に他者のことも愛せないわけです。
自分を愛せている人は、そのごとくに、他者も愛することができるでしょう。

パウロの発言について

しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福である。
わたしも神の霊を受けていると思う。:コリント人への第一の手紙 07章 40節

 

僕は新約聖書のこの箇所を若い頃に読んで衝撃を受けたものです。

その頃の僕は聖書に書かれているのは神のことばであって、絶対的に正しいものだと信じて疑っていませんでした。しかし、ここに書かれていたのはパウロの個人的な見解と、「思う」という確信的ではない言葉遣いでした。「思うって、なんやねん!」とツッコミたくなりました。

 

 

聖書の矛盾について考える

働くことについて少し考えてみます。

イエスは次のように言っておられます。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」:マタイによる福音書 6章 26節

空の鳥は働いてなどいない。しかし鳥は現に生きている。
私達人間は鳥よりももっと価値あるものだ、とイエスは言う。
だからなおさら神に養ってもらえるだろうと言っているのではと思える聖句だ。

しかしパウロは次のように言う。
「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。  」テサロニケの信徒への手紙二 03章 10-11節

と、働かないものを叱咤しているわけです。

イエスとパウロとは考え方が違う、と思わずにはいられないのです。

イエスは「思い煩うことなく、神に信頼せよ」というメッセージを投げかけてきます。

しかしパウロは「規律正しい生活をせよ」というメッセージが強いです。

イエスは人生の師のようだが、パウロは宗教的であり、教条的だと僕には思えます。

「教える・教わる」という概念と「情報の共有」について

昔は「教える」ということがあった。

そうすると、当然「教わる」ということもあったわけです。

 

現在でも、まだそうしたことが「ある」と思ってる人の方が多いですが、あると思っている人は、今でも「教える」や「教わる」を当たり前と思って実践しているわけです。

 

でも随分と前から建築士の資格を取らせる学校等ではビデオ講義というものになっていて、教室内に先生はおらず、講義を録画したビデオが流されているだけでした。

教室内では、生徒さんであり、お客さんでもある人たちがビデオから自主的に学んでいました。

 

今では、Youtube動画などで、これと同様に色々なことを学ぶことが出来ますね。

昔より素晴らしいのは、知識を非常に低コストで身に付けられることです。

 

情報を伝える側と、そこから学ぶ側には、お互いに何の上下関係もなくなりました。

それどころか、リアルで出会ってさえいないのです。

 

現代は、上から目線の概念から発生した「教える側」、「教わる側」という上下関係から、「知っていることを共有する」という横の関係へとシフトしている時代です。

 

このようにして情報が人類に平等に行き渡るようになると、人類全体のレベルアップに計り知れない貢献をすることになるわけです。